昭和四十七年五月十八日 朝の御理解
X御神訓 道教えの大綱「わが身はわが身ならず、みな神と皇上との身と思い知れよ」 大変な難しい御教えだと思います。わが身はわが身ならず、みな神と皇上とのと。いわゆる神様と天皇陛下の御命だと。
 国に一端緩急のある時には、それこそ身を渇巳の軽きにおかなければいけない。天皇陛下の為に、それは自分の命じゃない、自分の物じゃない。天皇陛下のものだから 一銭五厘の葉書が来ますともうそれで命を的に第一線に立たなければならないといったような時代があったわけですね。今はそうではない。
 けれどもそれは考え方がいわゆる天皇陛下の御ものとか、いわゆる御命、御体だというような頂き方。その時分に善導寺の岸先生がまだ小学校の先生をなさっておられる時分でしたけれども、子供達がお弁当の頂き方が悪い、もういっぱい御飯つぶをいけたまま、お茶でゆすいで頂かん。それで私は生徒達に米一粒でも神様の御ものじゃから、粗末にしてはならんと言うてもわからんから、米一粒でも天皇陛下の御ものぞと言うて教えよりますというような事をいつか話ておられたのを思い出したんですけれども。そう言うと子供達が聞きよった。そういう時代。
 米一粒でも天皇陛下のものだと、だからお粗末にしてはならないんだと教えると、子供達が言う事を聞きよった。そこでそんなら私共のわが身はわが身ならず、そんなら神様の身であると言う事がわかるという事は、非常に難しい事。それこそ米一粒でも神様の御ものですから、粗末にしちゃならない。ましてや、自分の身もこれは神様の御身であると頂かして貰うところから、昔の私達の婆は言っておりました。
 神様のお体だからね、注射やら、はり、灸なんかは絶対しちゃいけんと言いよりました。そういう感じ方というものが出来てくると、米一粒でも天皇陛下の御ものであるとか、命であるとかという事は、なあにもご利益はありゃしません。
 けれどもね、神様の命、神様の体だから、これを粗末にするような事をしちゃならない。はりやら灸やらこれに傷つけるようにしちゃならないという頂き方にはね、必ずご利益が伴うのです。
 いわゆる、はりをせんでも、灸をせんでもおかげを頂く。してみるとその神と皇上というそれは、ここは今でも大変問題になるところですけれども、そんならわが身は神様の身という事だけは本当なんだ。
 又この皇上という事について、天皇陛下という意味だけではなくて、いろいろそれを解釈を加えますと、これも生きてきますけれども、今日私はこのわが身がわが身ならずという事がわかるという事、そこにはね、これはもう大変な信心なんですよねえ実際は。けれども話を聞いて、成程神様のお体だなという事がわかるから、そんなら神様の体を無理無体な事をしちゃならないとか、又傷つけるような事は御無礼になるとかいう頂き方はです、御利益が伴うところから考えても、確かにそうだなとわかるわけなのです。
 自分の体のようであって自分の体じゃない。もう自分のものではひとつとてもない そんならこの体だって、自分のものじゃない。神様のお体であるという頂き方。そういう頂き方では確かにおかげがあるわけです。だからやはりそうだなとわかる。
 ですから、家、蔵、財産一切が神様の御ものであるならばです、そんなら自分の持っておる苦労とか、又は借金とかいったようなものも一切神様のものだという事にもなるわけです。わが身はわが身ならずという事がわかってくるとそういう事になってくる。だから借金を負うておっても楽なんです。
 玉水の湯川先生が、それだけで人が助かったというようにですねえ、もう借金で首がまわらん。お願いに行くと教えておられる、自分の借金と思うから苦になる。これからは親が出来たんだから、その借金は、もう親に責任持って貰おうという説き方なんですね。いわゆる、わが身はわが身ならずという事の大阪ふうに具体的に教えられたわけですね。そんかわりに儲け出したからと言うてそれはお前の自由には出来んとぞと。お前はどこまでも店の番頭さんであり、神様が御主人であり、お前の家内は女中さんであるとういわけなんです。
 ですから今日はいくら売れました。今日はいくら借金払いが出来ましたと報告しさえすりゃいいんだと。そういう観念にならせて頂く時にです、自分も楽になる。勿論それは御利益が伴ったわけです。それはもう本当にすごいですねえ。大阪で商人の方達がおかげを受けるというのは、自分のものと全然してないわけです。わが身だけではない、もう家、蔵、財産一切が神様の御ものだという。けれども、確かにそれが本当である証拠に御利益が頂けれるおかげが頂けれるわけですね。と言う事はどういう事かと、わが身はわが身ならずと、悟れた時に、もう人間の最高の楽な心持ちが開けるんです。ですからやはり大変難しい。
 そういうふうに、昔の御信者さん方は純粋だったんですねえ。ですから、例えば、神様のお体に傷つけるような事では相すまんというその相すまんという心が、もう例えば、そんなら神経痛なら神経痛の人、リュ-マチならリュ-マチの人が、どんどん助かった。灸をすえようか、けれども灸をすえて体に折角頂いておる神様の、このお体に対して、傷をつけるような事は御無礼になるという頂き方、実に素朴な考え方ですけれども、実はそれが本当な事であった証拠に、おかげが伴うというのである。
 それでまあ、いうなら、わが身はわが身ならずと言うか、一切合切が神様の御ものであるという頂き方の中には、そんなら、いうなら借金の方だって神様の借金という事になり、いわゆる御主人の借金であり、番頭さんは御主人が、今日はどこどこに集金に行けといわれりゃ、はいというて行きゃよい。今日はどこどこに払いに行けといわれりゃ、はいと言うて払いに行きゃよい。
 そしていくら集金してきましたと言い、又は行きましたけれども、先方が払いが出来ませんでしたと報告するだけでよい、楽な事。
 だからお道の信心は、ぎりきりのところをわからせて頂く為に、わが身はわが身ならずという事をわからして頂く為に、信心修行させて頂いておるというてもよい。
 真実、そこんところがわからして頂いたら、もうこれより楽はないという、楽な心が開けてくる。第一不平がなくなる。むが身はわが身ならずというのは、そういうような効用があるわけなのです。
 いうならば、本当の意味に於いての楽を求めての信心なんです。金光様の信心は。 勿論、諺にもありますように「楽は苦の種、苦は楽の種」といった事を申しますがね。その楽が苦の種になるような楽では、お道でいう楽ではないのです。
 もうだから、楽は苦の種、苦は楽の種でず-っとそれの堂々まわりなんです。普通でいう楽は、いうならば後口の悪い楽なんです。ごげん楽しよるが、いつこの反対ががばっとくるかわからんと思うただけでも夜が眠れん位にある。だからそういう楽ではない。楽は苦の種になるような楽ではない。
 もう、いよいよ楽が楽を生んでいくといいうね、楽でなからなねばいけません。だからその楽を内容として、例えば、苦しい事、難儀な事、そういう中に楽を感じられる。
 二十年前でしたかねえ、「味苦魅楽」と頂いた事がある。楽に魅せられるなと、そして苦労の中に味わいを求めよというのである。だからそれが信心と言うてもいい。 まあ信心修行と言うてもいい。苦しい脇から見たらどんなに難儀な事だろうと思うけれども、本人の心の中には信心の喜びでいっぱい。そういう楽がいよいよ楽を生んでいく。いよいよ楽は苦の種ではなく、楽はいよいよ楽の種になっいく。本当のものはそうなんだ。
 大体柿の種植えてみかんがなるはずがない。けれども普通で言う楽というのは、本当の楽じゃないから苦がなってくる。本当の楽と言うものは、楽の種は楽を生んでいくのである。世に楽天家という人達がある。まあ例えばあんまり気にかからないという事ですねえ。だからそれは如何にも素晴らしいごたるけれども、それはどこまでも貧楽にすぎない。だから仲々難しい。
 信心で言う楽というのは、本当の信心がわかっていかなければならん。それも目指すところはどこかと言うと、わが身はわが身ならず、神様の一切が御ものだという。 それに例えば、それは苦労でも、難儀な事であっても、それはめぐりであっても、そのめぐりそのものも、神様の御ものだという事になってくる。だからそのめぐりに対してでも、お礼が言える事になってくる。
 そこでその見方が、成程、めぐりの為お互いが難儀をしておる。けれどもその難儀のおかげで修行さして貰う。その事によって力を得る。大体はめぐりはないとこう言われております。けれども事実又そのめぐりがあるとも言われるけれども、ここのところの悟りが開けた時、わが身はわが身ならずという事がわかった時に、もうめぐりは自分のもんじゃないという事になる。あるものは神愛だけである。
 蛇のお知らせなんかを身のめぐりとおっしゃるけれども、私はある時お知らせを頂いたのに、蛇、蛇と思うておったら、それが強い強い、大きなしょろ縄であった。
 そんなお知らせを頂いた事がある。だから本当はめぐりの実体というのは神愛である。より強いものにしょうとする神様の働きなんです。だからめぐりが大きければ大きい程おかげが大きいという事になるわけである。
 してみるとそのめぐりの為に、苦しんでおる事もです、いうならば有難いという心になる、という事はその苦しいという事の味わいがわかってきたわけである。その苦しい事がいわば楽という事になる。
 そこで信心を頂いて参りますとね、いよいよ極楽世界という事になるのです。ですから私共がどの位おかげを頂いて楽になっておるかという事を思ってみるといいです ほんに以前の私ならそうにゃ腹が立っただろうといったような事やらが、ひとつも腹が立ってないならば、それだけあなたは楽なおかげを受けておるわけである。
 以前ならばこれでそうにゃ心配な事であろうけれども、もうさらさらその事に対しては心配せんという事になったら、それだけあなたはおかげ頂いとるという事になるです。心配はない、不安はない、不平はない、不足はない、それが楽なんです。
 それでそんなら自分という者を振り返って見る時に、この位の事が心配になる。この位の事が腹が立つ、そこでお取次を頂く、お取次を頂く事によって本当の事がわかる。本当の事がわかるから、心が今まで腹が立っておったのが、腹が立たんのであり心配になっとったのが心配がなくなる。そのようにして楽になる稽古をいわばさして頂くわけです。
 だからここのところの信心の進め方といったようなものが、身についてくると、非常に楽しいと思うですねえ。自分が本当な事がわかってない証拠にイライラしよる、腹が立ちよる、心配になりよる。本当の事がわかってくると心配がない。だから勿論不安はない、不平もない、不足もない事になる。本当の事がわからんから腹が立ったり、不平不足を言ったりするわけです。
 だから結局私の信心は、この位しかまだ本当な事がわかってないんだという事が、答えが出てくるわけです。そういう信心を繰り返さして頂いておるうちにです、成程わがものというのはないんだなと、みんな神様の御ものであるという事がわかってくる。という事はどういう事かというと、それも私のものという事にも通じるんですよ「わがものと思えば軽し傘の雪」という諺がある。わがものと思うとそれは軽いのである。楽なのである。それを人のせいにしたりするから、それが冷たく感じたり、腹が立ったり、不平不足になってくる。だからそれをそんなら究明して参りますとですみんなわが身はわが身ならず神様の御ものであるというところに同じところになってくるです。人間何というですかねえ、欲というかわが物と思えば楽なんだ、なら、そのめぐりでもですね、もう人のもんじゃなか、自分のもんだと思うから楽になるとですよ。だから自分がそのめぐりのお取り払いを頂く事に精進するそして後でわからして頂く事は、私にこんな力を下さる為に、このように楽になる事の為にあった、してみると、あれはめぐりではなかったという事がわかってくるのであって、実際は神様の世界のもの、神様のもの、それを私共が迷うから苦労にしてしまう。
 わが身はわが身ならずという事は、今日私が申しましたように、そのように難しい事なんだ。わが物と思えば軽い傘の雪で、もうそれこそ楽になってくる。いわゆる、それに対する愛情すら湧く。いわばめぐりに様をつけたいごとなってくる。
 めぐり様様である。めぐり様のおかげで信心が出来ます。めぐり様のおかげで力が出来ます。そしてそういう苦の中にです、味わいがわかってくるようになるところから、その楽の種は必ず、もっと素晴らしい楽の実を実らせていく事が出来る。
 それこそ本当の意味に於いてです、金にも不自由ない、物にも不自由ないという楽なんです。いうなら心配も不安もない。どんなに金を持っとっても、どんなに健康であっても、不平がある不足があるなら、もうその人は楽じゃないわけですよね。金があるならいくら楽じゃろうかと、もう、決してそうじゃないです。
 だからそういう楽では必ず苦の種を作ってしまうのです。楽は苦の種になってしまう。けども信心で言う楽というのは、楽の種はやっぱり楽の実りがある。それは本当の事だから、本当の意味に於いての楽なのだから、楽の種をを蒔いたら楽が実らんはずがない、それが道理。
 けれども本当の楽ではない楽に魅せられとる。それは必ず苦の種になる。いわゆる諺通り。楽は苦の種、苦は楽の種といったような事になっくる。
 そういう楽という心がです、どういう事になるかというと、いつ神様に召されても楽という事になってくる。それを死生観という。いうなら天皇陛下から一銭五厘の葉書で招集されても文句は言えないというのは、これは大変押しつけられたような感じであるけれどもね、本当の神の身と思い知らされて頂く時にです、いつお国替えのおかげ頂いてもそこででもお礼の言えれる心というのが生まれてくる。
 それが私共がいつも申しますように、この世で楽な心を開かずして、あの世に極楽があるかというのはそれなんです。この世で有難いという心を開かずして、あの世で有難い魂の世界があるとは思えない。
だから本当に毎日,毎日はがゆい思いをしよる。毎日,毎日腹が立ってたまらんというような人はね、もう本当にひとつどういところから、こんなにイライラ、モヤモヤがあるかというところを究明してです、いわゆる本当の事がわからして頂いてです、楽になる稽古をさせて頂かんとです、それこそあの世までイライラモヤモヤを持って行かにゃならんという事になる。
 私共が信心がわかったとか、信心を頂いたとか言うけれども、私共が本当の楽というものを心に感じさせて頂けれる程度が、あなたの信心の程度だという事になるのです。そこんところを、そんなら私共は、日々お取次を頂いて、やっぱり不安がある、心配がある、腹の立つ時もある、けれどもそこんところをお取次を頂いて、その本当の事がわかってくる。段々信心する者は肉眼をおいて心眼を開けとおっしゃるが、心の眼が開けてくるとです、本当な事がわかってくるです。
 本当な事がわかってくるから、腹を立てるだんじゃない、お礼を言わにゃんという事になってくるわけです。そこに楽がある、その楽が本当の楽なのである。
 だからその楽の種を、本当の種を蒔いて、本当の楽の種が実らんはずがない。しかもそれは年々歳々、その楽というのは大きくなっていかなければならない。
 成程、金光大神は家繁昌子孫繁昌の道を教えるとおっしゃるのは、成程、そうだと合点がいくわけです。わが身はわが身ならずということを、本当にわからして頂くという事は、もうそれこそ大変な事だと思います。けれども、そういう日々の生活の中に、お取次を頂きながら、腹を立てんですむ、不平不足を言わんですむ、真実な事がわかってくるから、それが出来る。稽古をさせて頂いておるうちにです、成程、わが身はわが身ならずだなという事がわかってくる。
 実際はこの世に人間を苦しめるめぐりなんてものはないんだというような事さえわかる。それを、めぐりを私の物だという頂き方になるとです、楽だと。
 それに愛情が湧く、めぐり様々として大事にする。めぐりと仲ようなる信心ぞと、いつか御理解頂いた事がありますが、そのめぐりと仲ようする信心をするうちに、もうめぐりではなくて、自分の力になっ下さる。めぐり様という事になってくる。自分に徳を受けさして下さったのはこのめぐり様という事になってくる。
 まあ、大変に難しい御理解でしたけれども、只、容易う今日早速わからして頂く事は、ああたがどれ程イライラしよるか腹立てよるか、又はどの位、不平があるか不足があるかという事を、確かめてみると自分の信心の程度がわかる。
 自分の楽な程度、楽に思うておる程度が、あなたの信心の精進によって獲得されたおかげであるという事、それをもっともっとその楽の種を蒔いていって、いよいよ楽な世界に住まわして貰う。それをあの世へ持って行くというようなおかげになっていかなければならんわけでありますね。
            どうぞ。